足尾から水俣・丹沢、そうして福島原発へ
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第二章:水俣=日本最大の公害病
・水俣病は収束したのか―東電原発事故の今後を考えるために―

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(水俣フォーラム)
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 水俣病は、チッソ水俣工場の排水に含まれていたメチル水銀が原因の中毒事件。食物連鎖により魚にメチル水銀が蓄積され、 その魚を食べた人の中枢神経や脳細胞を破壊し、手足のしびれや言語障害、体中がけいれんし、多くの患者が精神錯乱のうちに死亡した。 妊娠した母親の胎内でメチル水銀に侵された、胎児性水俣病の患者も生まれた。
 水俣病は原因不明の奇病とされ、患者たちは伝染病だ、精神病だと差別的なあつかいを受け、患者が人目にふれないように、家の奥深くにかくされることもあった。 体の具合が悪くなったら新鮮な魚を食べれば直る、という漁師の慣習も被害を拡大した一因になる。
 1956年(昭和31)、住民の発病が明らかになり原因がわかってからも、チッソ水俣工場と国は排水と水俣病の関連を認めなかった。 水俣工場では水俣湾に流していた排水を、水俣川に変更したために、八代湾(不知火海)一帯に被害が拡大した。何の対策もとられなかったので、 被害者は長い苦しみに耐えなければならなかった。
高度成長時代、チッソ水俣工場の繁栄によって水俣市も潤い、引退した工場長が市長になり、議員の多くも工場関係者だった。水俣市がチッソの企業城下町だったことも、 水俣病に対する行政の対応の遅れの一因となった。

《市街地とチッソ水俣工場》
 国が動き出して水俣病が公害病として認定されたのは、最初の患者が発見されてから12年後の1968年(昭和43)。この年に、チッソ水俣工場はアセトアルデヒド の製造停止、ようやくメチル水銀の流出が止まる。熊本県は1980年(昭和55)から14年かけて、水俣湾に堆積した水銀を含むヘドロの浚渫、埋め立て工事を行った。
 水俣病は根本的な治療法がないので、1950年(昭和25)代に生まれた胎児生水俣病患者は病気のまま生き、今なお病気と闘っている。

 2008年(平成20)5月31日現在、熊本県と鹿児島県を合わせて、水俣病の認定患者は2,268人、そのうち1,653人が亡くなっている。未認定患者数は10万人以上、 すでに亡くなっている人は4万人以上と思われるが、誰にもわからない。
                                                          ―財団法人水俣病センター相思社HPより

 1965年(昭和40)に公式発表された新潟水俣病は、昭和電工の排水により阿賀野川下流に発生した。2001年(平成13)12月31日現在、被害者数は、 認定患者が690人(申請件数2,138件)、未認定でも水俣病にもみられる四肢末消優位の感覚障害により、水俣病総合対策医療事業による救済の 対象となっている人が834人、そのうち半数近くは既に亡くなっている。しかし、病気を隠し続けて亡くなった人や、自分の病気が水俣病であることを 知らずに亡くなった人もいると言われており、被害の実態は正確には分かっていない。
                                                                  ―新潟水俣病資料館HPより

 水俣に田中正造のように被害者のために働く政治家が現れなかったことが、いつまでも水俣病が収束できない原因になっている。色眼鏡で見られた子供たちや汚染された魚介類の対策がきちんと なされていたら、福島原発事故後の対応もスムーズに進められたはず、と思わないわけにはいかない。


月ノ浦の漁港。このような小さな漁村が水俣病の発生地になった。

水俣病は人が発症する前にネコなどが発症、狂死していた。

チッソ水俣工場正門

チッソ水俣工場のプラント夜景

水俣の子供たち

熊本県水俣湾公害防止事務所の水質検視調査結果

水俣湾の魚介類は食べられません!

水俣湾の埋め立て工事

水俣病略年表

*このページの写真は1986年(昭和61)に撮影したものです。

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